一宮長常は、享保六年(1721年)に越前敦賀に生まれ、柏屋忠八と称した。初めは滅金師であったが、後に京に上り彫金師を志し、後藤系の保井高長(高山)に師事した。初期には雪山と銘したが、後に長常と改名し、含章子と号した。五十歳の時に越前大掾を受領している。絵画を円山応挙の師である石田幽汀に学んだことが特筆される。同時代には、宗珉、正楽、光興などがおり、「東の宗珉、西の長常」と並び称され、鉄元堂正楽・大月光興と共に「京都金工の三傑」とも称えられた。
長常は後藤流の高彫も上手であるが、その名声を確立したのは平象嵌に片切彫を駆使した作風である。四分一磨地を好み、金、銀、赤銅、素銅などの色金を的確に平象嵌し、輪郭の力強い深い鏨から、髭や服の模様に見られる細密な鏨使いまで、多彩な片切彫で彩る作風はいかにも長常流と評される。また、素銅や四分一を用いた昼夜地の目貫も制作しており、金無垢地の容彫も見られる。題材は人物、動物、故事など多岐にわたり、写実的な描写に優れ、対象物の質感や動きを巧みに表現している。特に、人物の表情や仕草、動物の皮膚感や毛並みなど、細部に至るまで神経が行き届いている。鐔においては、高彫と片切彫を併用し、表裏で彫りの手法を変えるなど、趣向を凝らした作例も見られる。
長常の作品は、卓越した写生力とそれを表現する確かな彫技によって高く評価されている。説示には「卓越した画力」「確かな彫技」「緻密な鏨使い」「的確な情景表現」「名工長常の面目躍如」といった評語が繰り返し見られ、その技術の高さと芸術性が高く評価されていることがわかる。また、「長常ならではの特有な表情」「長常独自の世界観」「まさしく長常の世界を堪能できる名品」といった評語からは、長常が独自の作風を確立し、他の追随を許さない存在であったことが窺える。その作品は、単なる刀装具としてだけでなく、美術品としても高く評価され、後世に多大な影響を与えた。