鷲田光中は、庄内藩酒井家のお抱え金工として名高い鷲田派に属し、文政十三年(1830年)に生まれ、明治二十二年(1889年)に没した。鷲田派は、初代信古堂光時を祖とし、二代好古堂時孝、三代求古堂光時、四代尚古堂光親と嫡流が続いた。光中は四代光親の弟であり、嚮山や浩然居と号した。鷲田派の各代は江戸へと出府し、柳川派に学んだ後、帰郷して庄内藩に仕えた。光中は兄光親とともに鷲田派の掉尾を飾る金工として知られる。
光中の作風は、加賀風の平象嵌を多用した華麗な作風を特徴とする。当初は平安城象嵌を髣髴とさせる作も見られるが、晩年は加賀風象嵌を駆使した作を残した。赤銅磨地を基とし、金、銀、四分一、素銅などの色金を平象嵌で精緻に表現する。その意匠は、蝶の群舞のような雅なものが多く、友禅や蒔絵の世界にも通じる美意識が感じられる。作域は鐔、縁頭、鐺など多岐にわたり、刀装具全般にわたってその技量を発揮した。
光中の作品は、精緻であり華麗であり繊細であると評される。特に平象嵌の技術は卓越しており、一点のゆるみもないと評されるほどである。その作風は、優雅さや気品を感じさせ、会心作と呼ぶにふさわしい出来栄えを示す。光中は、鷲田派の伝統を受け継ぎながらも、独自の作風を確立し、幕末から明治にかけての刀装具の世界において、重要な位置を占める金工家である。