伊藤勝見(いとうかつみ)は、江戸時代末期に活躍した刀装金工家である。文政十二年(1829年)に江戸で生まれ、十二歳で田中清寿に入門、弘化元年(1844年)に十七歳で師の養子となり清重と名乗る。若くして法橋位に叙せられ、師より東竜斎の号を許されるも、後に清寿と不仲となり田中家を離れた。その後、蒔絵師の柴田是真に師事し、万延元年(1860年)三月には伊藤正広家と養子縁組して正隆と名乗り、伊藤家の十代目を継いだ。勝見と改名したのは三十歳後半であり、明治四十三年(1910年)に八十二歳で没した。
勝見の作風は、師である田中清寿の影響を強く受け、象嵌と色絵を多用する点に特色がある。特に、金、銀、赤銅などの色金を的確に用いた象嵌技術に優れ、その発色の良さも特筆される。高彫、片切彫などの技法も駆使し、写実的かつ装飾性の高い作風を確立した。題材は、人物、花鳥、故事など多岐にわたり、本阿弥家所蔵品を写した作例も見られる。重要刀装具指定の作には、「大聖不動明王図鐔」、「牡丹胡蝶図小柄」、「鳥獣戯画蛙合戦図鐔」があり、それぞれ勝見の特色が顕著に表れている。「大聖不動明王図鐔」においては、「象嵌と色絵を多用し、かつそれが的確に用いられ、信仰対象としての不動明王の迫力が、眼前に展開されるかの如くの出来」と評されている。「鳥獣戯画蛙合戦図鐔」は晩年の作であり、「原画を生かした構図が秀逸であり、高彫色絵、象嵌の技術は勝見の本領が存分に発揮された鐔である」と評されている。
伊藤勝見は、幕末から明治にかけて、伝統的な刀装技術を継承しつつ、新たな表現を追求した金工家として評価されている。象嵌、色絵、高彫などの高度な技術を駆使し、意匠に工夫を凝らした作品は、刀装具の世界に新たな境地を開いたと言える。特に、色金の効果的な使用は、勝見の作風を特徴づける重要な要素であり、その技術は後世にも影響を与えた。